Court Dance Ensemble

*Court Dance Ensemble*
バロックダンスについて

「フランス宮廷の華バロックダンス」

1. いびつな真珠バロック

いびつな真珠バロック

17世紀中頃~18世紀初め頃までのヨーロッパの芸術様式を「バロック」と呼びます。この言葉は普段使うことが少ないですが、表面がデコボコしている真珠のことです。真珠は綺麗な球が一般的ですが、それと区別していびつな真珠をバロックと言います。この頃は装飾をふんだんにつけることが宮廷で流行しました。建物、家具、服、音楽、、、。元の形が見えないくらい飾りをつけることがあったので、つけすぎ!という皮肉を含んで後世の人に「この時代の芸術はバロックのようだ」と言われたのが、始まりだとか、、、。このように、元は良くない意味だったのですが、現在では一般的に時代や様式に使われるようになっていきました。

2. ヴェルサイユ

ヴェルサイユ宮殿の

さて、バロック建築を代表するのはヴェルサイユ宮殿。建設されたのは、まさにバロック盛期の17世紀後半!それを命令したのはフランス国王ルイ14世です。フランスが芸術豊かな美しい国だということを、国内外にアピールしたかったという彼の政治的戦略の一つと考えられています。美しいお城はとても効果がありますね。建物だけが立派でもいけません。その中身も注目されます。内装はもちろん、華やかな美術品で飾られ、お城に集う宮廷の人々にも、「美しい服装」「高い教養」「優雅な所作」等が求められました。王侯貴族の家に生まれた人は幼いときから様々な習い事をして、社交界デビューする日に備えたそうです。ダンスはその教養の一つとして重視されましたが、ダンスレッスンは踊るだけでなく、上流階級にふさわしい所作を学ぶのにも役立ちました。公の場に出席するときは、優雅に歩いて美しくお辞儀することが必要だったので、身体の使い方がわかっていないといけなかったからです(お辞儀の仕方にも流行があり少しずつ変化していったので、大人になってからも常に練習が必要でした!)。おしゃべりするときも、立っている足の位置や優雅な手の動きが注目されたそうです。綺麗な姿勢を保つには体幹などそれなりの筋力も必要ですね。宮廷舞踏会は優雅な身のこなしとダンスを披露する場として重視され、頻繁に催されていました。

図①舞踏会の絵 図②手のつなぎ方

3. 太陽王ルイ14世

国王ルイ14世自身は公務が多く、とても忙しく規則正しい生活を送っていたそうですが、身体を動かすことが好きだったので、ダンスのレッスンは時間をとって毎日受けていたそうです。(王様が下手くそだったらカッコ悪いですもんね!)とても熱心に練習していたそうで、難しいテクニックのダンスも得意だったと言われています。このように踊りが上手だったルイ14世は、舞踏会だけでなく舞台でも自分の踊りを披露していました。代表作は「夜のバレエ(1653年)」。このバレエにアポロン(太陽の神)の役で出演したのが好評だったことから、後に「太陽王ルイ14世」と呼ばれるようになったそうです。彼は好きなダンスを一緒に舞台で踊って趣味を共有できる人を優遇していました。宮廷の人々は舞踏会で上手に踊って王様の目にとまり、お気に入りグループに加えてもらえることを目指して熱心にダンスの練習をしました。それは出世を意味し、収入や宮廷での自分の地位も上がるからです(踊りが下手で地方に左遷された貴族がいたらしい)。その貴族達の鑑賞眼を満足させていたプロダンサーたちのレベルはとても高かった、というのは想像にかたくありません。

夜のバレエのアポロン(太陽の神)ルイ14世

4. クラシックバレエのルーツ

宮廷舞踏について昔は「貴族はご馳走ばかり食べていたので、お腹を空かせる運動の代わりに踊った」とか「遊んでばかりいたので、簡単なダンスしか踊れなかった」と言われていましたが、20世紀後半にバロックダンスの研究が進み、当時の様子がわかってくると、その憶測は間違いであったことがわかってきました。非常に理論化・体系化された舞踏(1661年にルイ14世の命令で設立された王立舞踏アカデミーで確立されたダンス様式)で高度な振付もあったこと、クラシックバレエのルーツにあたり舞踏史で大きな影響を与えたこと、などなどです。ルイ14世がいなかったらクラシックバレエは存在していなかったかもしれませんね。また、音楽と舞踏が密接な関係にあったので、音楽史にとっても重要な分野です。決してお腹を空かせるためのダンスではありません!

5. 舞踏譜

では、どのように研究するかというと、当時の舞踏教師たちが出版した教本や踊りの振付を記録した「舞踏譜」が残されているので、それらを解読することから始まりました。伝承されていない昔のダンスを記録だけで再現するのは容易なことではありませんが、20世紀半ばから後半にかけてパイオニア的な研究家の方々が取り組んだお陰でかなりの精度で再現できるようになりました。今のようにインターネットが普及していなかった当時は大変だったと思います。特に舞踏譜は「どのような音楽」で「どのように踊っていた」か、2つ同時に知ることが出来る大事な手がかりです。様々な記号で記録された舞踏譜を解読するのは容易ではありませんが、記号の意味を把握して順番に組み立てていくと当時の振付を再現することが出来ます。宮廷舞踏だからゆったり優雅に踊っていたと思われがちですが、意外に速くて軽快なダンスもあれば、細かくて難しいテクニックもでてきます。装飾のたくさんついた豪華な衣装や華やかな頭飾り、ヒールのある靴、特に女性はコルセットをしめて踊っていたとは思えないような動きがあります。

舞踏譜

6. 踊りの種類

踊りの種類も、メヌエット、ブレ、ガヴォット、サラバンド、ジグ、アルマンド、クラント、フォルラーヌ、ルール、シャコンヌ、パッサカリア、ラ・フォリア、シチリアーノ、カナリー、ミュゼット、パストラーレ、ホーンパイプなど様々な国をルーツに持つダンスが数多く、それらが舞踏会や舞台で踊られていました。さらに舞曲は踊るための音楽だけでなくなり、作曲技法や演奏技術を重視した「踊らない舞曲」もたくさん作曲されるようになりました。バッハ、ヘンデルを初めとするバロック時代の作曲家の作品には、「組曲」や「パルティータ」などの形式化した舞曲を集めたものがたくさんあります。

*チェンバロハウス川井博之氏所蔵 Blanchetモデル(Neupert社)

7. 踊るために作曲された舞曲

たとえ踊らない舞曲でも、踊りの音楽としての特徴は根底にあります。それらを知るためには「踊るために作曲された舞曲」に戻ることが大切で、ルイ14世~16世時代にフランスで活躍した作曲家の作品にふれることが重要です。その中でもリュリはプロダンサーとして活躍していたところ、ルイ14世の目にとまり宮廷音楽家として活躍するようになりました。踊りを知り尽くした作曲家だったと言えるかもしれません。1700年以降フランスで出版された舞踏譜にはリュリ、カンプラ、マレ、デトゥーシュ、シャルパンティエなどの舞曲に創られた振付がたくさん残されていて、バロック舞曲のルーツを知る手がかりがあります。同じシステムを使ってイギリス・ドイツ・スペイン・イタリアなどでも舞踏譜は出版されていたので、ヨーロッパ各国でもフランスの宮廷舞踏は普及していました。J.S.バッハは舞踏教師ド・ラ・セルと仲良くしていたので、踊りのことをよく知っていたと考えられています。バッハの舞曲の手がかりも、舞踏譜やリュリの音楽にあるかもしれませんね。
今ではインターネットのおかげで簡単に調べたり聴いたり観たりすることが出来ます。
是非、フランスバロックの宮廷を華麗に彩ったダンスや音楽にも親しんでください。

リュリ


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